次郎吉物語・本編
生聞居酒屋(ライブハウス)高円寺・次郎吉物語


『次郎吉』誕生までのいきさつ

 17歳の秋、信州の実家を出た俺は、その後数年間日本で半放浪生活を続ける
ことになる。まず、静岡のミカン山。19の時には北海道に渡り、アイヌの兄弟
と組んで漆喰塗りのバイトをしながらバイク旅行。21の時に、姉を頼って上京、
高円寺でディスコの走りだったゴー・ゴー・バーや、じゅうたんバーの雇われ
マネージャーとして働きはじめた。69年、24の時に、当時大ヒットしていた五
木寛之の「青年は荒野を目指す」に憧れて、恋人と一緒にモスクワ経由でヨー
ロッパに旅立ち、フィレンツェの山の上の教会で結婚、ハネムーン旅行と洒落
込んだものの、言葉も判らず、仕事もしないまま半年で持ち金を使い果たし、
愛想を尽かした新妻にはベルギーで捨てられる羽目になった。むざむざ日本に
帰るわけにはいかない。というより帰りたくても飛行機代もない。無一文でブ
リュッセルの街角に取り残され途方に暮れていた時に思い出したのが、ヨーロ
ッパを旅してきた友だちが針金細工のアクセサリーを作り路上で売って稼いで
いたという話を聞いて、日本を出る前にかばんの奥につっこんでおいたペンチ
と針金だった。ものは試しと自己流で簡単なアクセサリーを作ってフリー・マ
ーケットの一角で売ってみると、作る先から売れていく。次の日もまた次の日
も、アクセサリーは飛ぶように売れ続け、フランス・フランの大きなお札がい
くらジーパンのポケットに押し込んでも飛び出してくるほどの荒稼ぎをした。
こんな大金を手にしたのは後にも先にもこの時だけで、文無しのその日暮らし
は、こざっぱりとしたアパートを借りて毎日レストランで食事という贅沢な生
活に一変した。となれば外人の女たちもほってはおかない。一仕事した後は毎
晩、若い娘たちとバーで朝までドンチャン騒ぎを繰り広げることになったが、
心のどこかに虚しさが残っていた。
 そんなある日、友だちのイスラエル人に誘われて、初めて生演奏の音楽を聞
ける店にいってみた。イスラエル人が経営する店で、ミュージシャンも全員イ
スラエル人だった。生まれて初めて入ったライブハウスで、生演奏の迫力とと
もに感動させられたのは、音楽に身をまかせ、思い思いに演奏に合わせて手拍
子を打ち、かけ声をかけているリラックスした客たちの姿だった。そんな客の
表情を見ているだけでほっとした気持ちになってくる。そうだ、言葉も通訳も
いらない。その場の雰囲気に合った心地よい音楽があれば、ミュージシャンと
客がひとつになって楽しめるのだ。すぐにこの店の常連になって、ミュージシ
ャンや他の常連客とも友だちになった。
 日本人の赤軍派ゲリラがイスラエルのテルアビブ空港で銃を乱射、巻き込ま
れたイスラエル人数名が死亡するという事件があったのはちょうどそんな時だ
った。その店にいけば日本人というだけで白い眼で見られるかも知れない。で
も本当の友だちならそんなことは気にはしないはずだ。そう信じて思い切って
店のドアを開けた。
「ハーイ、マコ」
 イスラエル人のミュージシャンたちはいつもと変わらぬ笑顔で声をかけてき
た。そうだ、同じ音楽を愛する者同士には、人種や国境の壁なんかないんだ。
それが確認できたことが何よりも嬉しかった。
 その後もアクセサリーは売れ続けていたが、どこの国でも税務署のしつこさ
は変わらない。すぐに目をつけられ、半年後には強制送還の憂き目を見ること
になってしまった。やむなくアクセサリー作りの道具一式を、貧乏な中国人の
絵描きの友だちに譲り、貯まった金は飛行機代を残してきれいさっぱりと使い
果たし、結局、日本に持ち帰ったみやげは、ライブハウスをやりたいという漠
然とした夢だけだった。
 文無しで帰国した後はしばらくバイトで食いつなぎ、26の時に高円寺の北口
にある地下の店(現在の次郎吉がある場所)で姉が経営していたフランス料理
のレストランの雇われマネージャーとして働きはじめた。やがてレストランを
たたむことになった姉から、店を使って何か商売をする気はないかと相談され
たのがその3年後だった。この願ってもないチャンスに飛びつき、ライブハウ
ス開店の夢が実現したのは、ヨーロッパ旅行から戻って5年後の1974年、
29歳の時だった。  
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