1974年 第1章 開店の準備


すべてが手作りの店(1974年)

 当時、同じ中央線沿線の吉祥寺にはフォークの店「ぐぅあらん堂」、西荻窪に
は「アケタ」とロフト西荻店、荻窪には「ロフト」荻窪店と、若者に生演奏を
提供する店がぼちぼち出来はじめていた。高円寺にもジャズやロック、ブルー
スを流す喫茶店が数軒あり、立地条件も悪くなかった。スタッフも意外に簡単
に集まった。姉のレストランの常連で音楽好きのマーちゃん、ヨーロッパ放浪
中につるんでいた菊地浩司、そして高円寺で最初のブルース喫茶、「シットバッ
ク」の常連のチュチュがすぐに名乗りをあげてくれた。チュチュはその1年前、
新宿の西口で「マガジン1/2」という、おそらく東京で最初のライブハウス
と呼べるものをはじめた男だ。当時、京都、大阪を中心に活躍していたウェス
トロード・ブルースバンド、ブルースハウス、憂歌団、妹尾隆一郎といった初
の日本人ブルースバンド、ブルース・ミュージシャンをいち早く東京に呼んだ
ものの、時期が早すぎたためか店は1年足らずでつぶれてしまったらしい。と
はいえ、新米ライブハウス経営者の右腕としてはまさにうってつけの人材だっ
た。
 店の内装、外装はプランニングから実際の工事まですべてスタッフの手作業
だった。壁は黒一色に塗り、ミュージシャンのポスターやレコード・ジャケッ
トを一面に貼りつけ、アングラっぽい雰囲気に統一した。ステージ正面の壁に
は、京都に住む前衛芸術家でブルースファンのアクさんが創った木片の御札の
束が飾られていた。呪文を唱えてから適当な御札を3枚めくり、札の裏に書か
れている言葉をつなぎ合わせると運勢が判るという占いゲームのようなものだ。
天井からは古ぼけたランプとドライフラワーがぶら下がっている。雨の中、信
州の田舎から運んできた大木の切り株がテーブル代わりだったが、濡れて水を
吸い込んだ切り株はとんでもなく重く、大人3人がかりでやっと持ち上げ、そ
れこそ命がけで地下の店内に運び入れた。カウンターも木製の手作りにしたが、
椅子は節約のためレストラン時代のものをそのまま使うことにした。その革張
りの椅子がいかにも不釣り合いなので、飾り柱を何本か立ててみたが、その結
果、柱に頭をぶつける人が続出、不評だった。
 入口は山小屋風の店構えにするために、路地に面した外壁に、縦割りにした
丸太を張り、レストランの置き土産の大きなまな板に、自分で「生聞居酒屋・
次郎吉」とノミで彫った看板を掲げた。生聞は、生で聞く、つまり自分なりの
ライブ(Live)の直訳だ。憂歌団のライブ・アルバム、「生聞59分」という
タイトルはこの看板の文字をそのまま借用して付けられたものだ。やっと外装、
内装が完成し、念願のライブハウス「次郎吉」が開店にこぎつけたのは、工事
開始から約1ヵ月後の1974年2月1日だった。
 「次郎吉」という店名の由来を今でもよく聞かれる。その頃は、横文字の名
前の店が多かったので、かえって日本語のほうが目立つし外人受けもするので
はないかと思ったのだ。もちろん日本を代表する大泥棒、ねずみ小僧の次郎吉
を意識して付けた名前で、言葉の響きもいい。電話帳を調べると、次郎長はあ
ったが次郎吉という店名はひとつも見あたらなかったので、これで決まり!
ということになった。この名前はとても気に入っているのだが、銀行で名前を
呼ばれた時、他の客が「次郎吉さんって誰?」といった感じで辺りを見回すの
で、 立ち上がりづらかったということが何度もあった。 
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