開店はフォークで。(1974年2月1日)

 開店初日のライブのブッキングは吉祥寺のマッチボックスという事務所に頼み、
当時のフォーク界の人気スター、高田渡、西岡恭蔵、友部正人、大津あきらが
出演したが、この日、大津あきらのバックで演奏していたのがまだ十代だった
坂本龍一だ。昼、夜、2回のステージはどちらも満杯で、好調なスタートにス
タッフ全員ほっと胸をなでおろしたまではよかったのだが、ほっとしすぎて気
が弛んだのだろう、ミュージシャンのギャラを店に来る途中で落とし、泣く泣
く知り合いに借りる羽目になるという頂けない落ちがついてしまった。


関西ブルース・パワー炸裂(イエロー・ブルースの誕生)

 開店当時はミュージシャンの数も少なく、ライブは週末だけで、平日はパブ
として営業していたのだが、客足はさっぱりだった。というのも、アングラ風
の入口のドアを開けると、地下に向かって両側にアングラ劇団やコンサートの
ポスター、チラシが貼られた薄暗い階段が続いているので、普通の人間、特に
若い女の子はまず敬遠して入ってこないのだ。そのうちに高円寺、阿佐ヶ谷周
辺に住んでいる若い漫画家集団とヒッピー連中のたまり場になり、一般客はま
すます入りにくくなってしまった。打開策として昼にランチを出してみたが、
いつもの顔ぶれが昼間からたむろするようになっただけだった。
 そんな時、希望の光になってくれたのが、京都の若者を中心に関西で起きた
ブルース・ブームだった。
 京都ではウェストロード・ブルースバンド、ブルースハウスが2大人気ブル
ースバンドとして活躍。大阪では憂歌団が活動しはじめていた。
 ジャズ喫茶以外なかった東京にも、下北沢の「ゼム」、高円寺の「シットバッ
ク」、西荻「ロフト」、新宿の「セラヴィ」など、ブルースが聞ける店が出来は
じめ、音楽関係者もブルースに注目しはじめていた。
 最初に「次郎吉」に登場した関西のブルースのバンドは、ウェストロードを
離れた山岸潤史のセッショングループだった。
 メンバーは山岸(ギター)、砂川(パーカション)、チュウ(ベース)、ベー
カー(ドラムス)、北京一(ヴォーカル)、国府(キーボード)だった。
 この山岸のグループが発展して出来たのが、日本人ブルース・ソウルバンド
として初めてアメリカ・レコーディングの快挙を果たしたソーバッド・レビュ
ーだ。

山岸談:「最初に次郎吉に出たのは75年の5月頃や。ウェストロードはもう
やめとったから自分のバンドで出たはずやな。ウェストでは次郎吉に出てない
よ。俺、75年の8月11日にアメリカに行ったんやけど、次郎吉のスケジュール
表に「山岸、砂川渡米記念、7月連日出演」って書いてあるんや。でもその頃
は京都におったんやで、どうやって連日出演できるちゅうねん! よう考えたら
次郎吉でマスターの次に古いのが俺やな。ワオさんより古いんやで」

 次に、「マガジン1/2」のマスターとして関西のブルース・ミュージシャン
を呼んだ経験のあるチュチュのコネで声をかけたのが、京都を中心に学生たちに
圧倒的な人気を持っていたウェストロード・ブルースバンドだ。
 75年、キャラバンカーで乗り込んできた彼らの演奏は、荒削りだが、東京のミ
ュージシャンたちにはない迫力と熱気、そして何より泥くさい魅力に溢れていた。
「ノってくれるまで帰さへんでえ!」的な気合、サービス精神、プロ根性。どこ
から聞きつけたのか宣伝もしないのに店は若者客でいっぱいになった。
 こりゃすげえ。ブルースが何かも俺にはよくわからなかったけれど、ハングリ
ーでファンキーな関西ミュージシャンたちがすっかり気に入ってしまい、「これ
や、これが音楽や!」とばかりに、次々に関西の人気ブルースバンドに声をかけ
るようになった。交通費を節約する為に、ワゴン車にメンバーと機材がすし詰め
状態。俺の狭いアパートは貧乏関西ブルースメンの無料宿泊所と化し、常に関西
弁と洗濯物で溢れていた。
 ウェストロードの次に呼んだのは、「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」と
「憂歌団」だった。初めて日本語のブルースのレコードを出した浪花のアコース
ティック・ブルースバンド、憂歌団のデビュー・シングル「おそうじオバチャン」
は発売後、1ヶ月足らずで放送禁止になったにもかかわらずブルース系のシング
ルとしては大ヒットし、「次郎吉」、吉祥寺の「曼陀羅」、「のろ」、新宿「ロ
フト」、「ヘッドハンター」などが競争で呼ぶようになり、東京にも本格的にブ
ルースの種がまかれることになった。
 その頃京都では、現在もライブハウスの老舗として健在の「拾得」、「磔磔
(たくたく)」、続いてオープンした「サーカス・サーカス」、「京大・西部講
堂」がブルースマンたちの活動拠点になっていた。ミュージシャンの大半は同志
社大学を中心とした京都の学生で、東京出身者はブルースハウスのギターのハッ
チャン(服田洋一郎)とベースのモッチャン(森田恭一)ぐらいで、後は全員、
九州、四国を含めた名古屋以西の人間で占められていた。名古屋にも「オープン
ハウス」という店があって、近藤房之介や、尾関ブラザースが活躍していた。
 76年〜77年にかけて、アメリカから黒人ブルースマン、スリーピー・ジョン
・エスティスとハープのハミー・ニクソンのコンビ、ロバート・ジュニア・ロッ
クウッドとジ・エイシズが来日。第1回ブルース・フェスティバルに出演、大成
功をおさめた。
 スリーピー・ジョンとハミー・ニクソンは78年に再来日、憂歌団と全国ツアー
し、次郎吉にも出演している。
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