ネイティヴ・サンの誕生 (1977年)

 Cちゃんのバンドにゲストとして本田竹広や峰厚介が出演した時、大出元信
(ギター)、川端民夫(ベース)が遊びに来て加わり、ご機嫌なセッションに
なった。
 このセッションで新しい何かを感じた本田さん達は何度もセッションを繰り
返し、これに村上寛(ドラム)や福村博(トロンボーン)が加わり自然にでき
たバンドが、やがてネイティヴ・サンになった。4ビートのジャズにこだわら
ず、サンバやラテンのリズムを取り入れた新鮮なサウンドのオリジナル曲を次
々に発表したネイティヴ・サンは、マクセルのCM曲の大ヒットで一躍人気グ
ループになった。日本でのフュージョンやクロスオーバー・ブームに火をつけ
ることになったこの曲は、パチンコ屋でもかかるほどヒットして、79年のアル
バム「NATIVE SON」はジャズ系のレコードとしては異例の30万枚を売ったと
いう。
 毎月1、2回やっていた次郎吉でのライブには、レコードを聞いてファンに
なった客が沢山来ていたが、生まれて初めてそれも次郎吉のような狭い店で聞
く生演奏の音量と迫力に度肝も抜かれている人も多かったようだ。
 ネイティヴ・サンは余勢をかってアフリカにも遠征、帰国後に田園コロシア
ムで行われた凱旋コンサートのステージの背景をアフリカ旅行の時撮影したビ
デオ映像が飾ることになった。

毎月末恒例、バースデイ・パーティ のスタート(1978年)

 月に1度の深夜の誕生日パーティはかれこれ20年以上続いた。
 その月生まれの客、スタッフ、ミュージシャンがステージに呼び出され、
「 ハッピー・バースデイ・トゥ・ユー」の合唱をバックにケーキのローソクを
吹き消し、ワインで乾杯する。「おめでとう」の声と拍手をキューに、スティ
ーヴィー・ワンダーの「ハッピー・バースデイ」がかかる。その後は、従業員
バンド、スケアクロウの演奏、そしてミュージシャン、客が入り乱れてのジャ
ム・セッションへと続き、朝まで飲めや歌えの大ドンチャン騒ぎが繰り広げら
れるのだ。
 もともと酒豪が集まっている次郎吉では、毎晩ライブの後に、本田竹広を中
心に朝まで飲んでいることがほとんどだった。楽しく飲むには口実が欲しいと
いうわけで、常連やミュージシャンの誕生日を肴に飲んでいただけなのだが、
連れや彼女、その友だちとその数が増えてきて、毎日パーティをやらなくては
いけないようなことになってきた。面倒だ、月1度にまとめよう。ということ
で始まったのがバースデー・パーティだった。
 ライブが終わって片づけを済ませた後なので、始まるのは早くても11時半、
遅い時は深夜1時過ぎになる。
 このパーティを盛り上げるために、チビタを中心にスタッフとその友だち連
中が多彩な素人芸を披露するようになり、これがまた名物のひとつになった。
 チビタの親戚のマリチャンが棒の先にくっつけた紙の月を持って立っている前
で、ちょんまげに口ひげをつけたチビタが、かつらをかぶったバイトの青学生、
アベショーを高下駄で蹴飛ばす「勘一・お宮」の寸劇、ピンクレディの「UFO」
や郷ひろみと樹木希林の「林檎殺人事件」の物真似といった出し物は、酔っぱら
った客やミュージシャンの大喝采を浴びていた。
 恥を覚悟で必死に店を盛り上げてくれるスタッフには涙がでるほど感謝してい
た。でも、せっかくライブハウスで働いているんだ。そこまでやる気があるのな
ら、いっそのこと従業員でバンドをつくったらどうだろう。といってもまともに
楽器を弾ける者がいないので、ギタリストを目指している常連客のノブにバンド
のまとめ役を頼むことになった。

従業員バンド、スケアクロウ結成!

 こうしてなんとか出来上がったのがスケアクロウ(かかしの英語名)だ。バン
ド名は、ネイティヴ・サンが当時、大ブームになっていた沖縄旅行で親しくなっ
た与論島の飲み屋の名前から取ったもので、マスターのトミーは次郎吉にも何度
か遊びに来てくれた。スケアクロウの初代メンバーは、ノブ(ギター)、チビタ
(ヴォーカル、トランペット)、ワオ(ドラム)、グッチ(パーカッション)、
デンさん(ベース)、ズレ子(フルート)、そして後に峰厚介と結婚するサスケ
(ピアノ)で、ノブの指導のもと毎晩ライブが終わった後に朝まで猛練習を続け
た結果、何とかバンドらしくなってきた。ときどき止まるリズム、チビタのでか
い声、恥を捨てた化粧や衣装。コミックバンドを目指していた訳ではないが、客
席は大爆笑。普段のライブより客が多いなんていう月もあった。
 やがて仕事帰りのミュージシャン、楽器を弾ける客たちがスケアクロウの演奏
に参加するのが恒例になり、プロ、アマが入り混じり、十数人が交替でステージ
に立って数時間のセッションを続けることもあった。水かけ合戦(ナベサダのラ
イブの時に水を掛けあったのが最初だ)が大流行したのもこの頃だ。最後はバケ
ツで頭から水をかけあうまでにエスカレート、胸の曲線をあらわにして踊り狂う
Tシャツの女の子たちを見て男たちは大喜び、毎月、最終土曜日の深夜だけは異
常な興奮に包まれていた。酔っぱらったチビタがノブのギターに合わせて歌い出
して、自然にできた「酔いどれ男」は幻の名曲だ。「今日もオイラは起き出して
・どこに行くのか知らないが・身体がうずうずしてくるぜ・昨日のあの娘はどこ
にいる・あいつにしようぜ気になるぜ・あいつだ・あいつだ・オレのもの・きっ
と落としてみせるんだ」
 この曲は、スケアクロウがネイティヴ・サンの前座で次郎吉に出た時に、チビ
タが熱唱し、やんやの喝采を浴びたという伝説を持っている。  こうして閉店前
の4時5時(深夜というよりはもう朝)になると、べろべろに酔っ払い、びしょ
ぬれになった客達は、自分達のまいた水やゲロをきれいにモップがけしてから、
スタッフとともに「くまぼっこ」に流れ、ラーメンを食べてからやっと家路につ
くのであった。
 78年には、フリーキー・オールナイト・コンサート・アット・ムーヴィー山小
屋を皮切りに、高円寺東映でCちゃん渡米コンサート、上田正樹やネイティヴ・
サン、ブレイクダウン、永井隆とブルーヘブン、南正人と立て続けに次郎吉の外
でコンサートをやっていた。ライブのアイディアがどんどん湧いてきて、いくら
働いても疲れなかったあの頃、若かったんだなあ。

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